■遡行日記   10月17日(晴)
奥多摩駅8:45の”鴨沢西”行きバスに終点まで乗っていたのは、三条の湯経由で雲取山へ行くおじさん1名のみ.
道が良く分からないらしいので、地図を出して”お祭”から後山林道のルートを教えてあげ、先に出発.
今日は1日中、青梅街道を歩く事になるが、”おいらん淵”まで15Km、バスが途中の丹波までしか行っていないから、引き返して
丹波まで9Km戻って来なきゃならない. で、24Km歩く事になる....なんとも”ゴクローサン”な話!.

幸いお天気が良いのと、大型車があまり通らないのでドンドン歩く.
保之瀬部落を過ぎてしばらく行くと、こんな山奥に!(...失礼!)と思うほど大きな丹波の町が見えてホッとした.
のめこい湯の横を過ぎて、丹波の町並みに入る.
昔の面影を残す丹波はひどく静かで、余り人の姿は見えなかった.
丹波のバス停で時刻を確認.なにしろ、4本/日しかなく、15:45分の奥多摩駅行きに乗り遅れると悲惨な目に合う!.
ここまで戻って来なくちゃならないから、少々焦り気味に丹波の町並みを通過、先を急ぐ.

余慶橋で丹波川を右岸に渡り(久し振りに”多摩川”の標識があった)、この先で”ナメトロ”と呼ばれる場所になる.
対岸から火打石谷と小常木谷が合流し、両岸の岩を”舐める様に”流れるので”ナメトロ”と云うらしい.
ここもゆっくり眺めている余裕は無く、先を急ぐ.
羽根戸トンネルと丹波山トンネルは、歩道が少し高くなっているので、楽に通過.
三条新橋は遥か下に掛かっており、その上の青梅街道沿いに尾崎行雄の碑があった.
明治42年、東京市長だった尾崎行雄が多摩川の源流を調査し、水源林の涵養を認識してこれを買収した旨の説明板があった.
ここからおいらん淵まで2.8Km. 帰りの時間が気になり、コンビニおにぎり2個をあっと云う間に平らげて、歩き出す.
この付近から先は両岸が狭まって、いかにも深山幽谷の趣きが続いており、多摩川の流れは遥か下だ.
”一之瀬川橋”で、多摩川の源流、笠取山から流れ出している”一之瀬川”と柳沢川に分れ、青梅街道は柳沢川に沿って、
柳沢峠へ上がり、塩山に通じている.
一之瀬川橋を渡ると、おいらん淵はすぐだった.
全く人気のない”おいらん淵”には慰霊塔が建っていて、なんだか薄気味悪い.
武田氏の時代、この付近にあった「黒川金山」の採掘で、採掘夫の慰安の為多くの遊女が居たが、閉山時に秘密が漏れるのを
防ぐため、この淵の上に宴台を作り、遊女達の舞がたけなわの頃、宴台を吊っていた藤づるを切ってこの淵に落とし、口封じ
したとされる...タタリが無い様しっかり手を合わせてから、少し下りて狭い淵の中を写真に撮った
おいらん淵から先は右岸の山が崩れ川床まで達していたが、青梅街道は左岸を大きく高捲いて急角度に上がり、その途中に、
笠取山へ通じる一之瀬林道が分岐している. ここで本日の行程を終了、もと来た道をバック.

帰りは下りなので、往きに2時間掛かったところを1時間半で、秋の風情が漂う静かな丹波へ戻った.
丹波で時間を持て余し、丹波村の対岸の丘の方へぶらぶら行って見ると...”縄文時代の遺跡”が発掘されていた!.

追:丹波バス停で、鎌倉から来られたという方にお会いした.
  この方も”多摩川の遡行”をされていて、そのコダワリは”多摩川に掛かる全ての橋を渡って来る”とか!.
  なんとも恐れ入りました...

■遡行記録
 8:04 ・奥多摩駅
  :45 ・  〃  発
 9:25
・鴨沢西バス停
  :40
 ・お祭バス停
  :45 ・親川橋
10:15
・保之瀬部落
  :35
・のめこい湯
  :45
・丹波
       (バス終点)
  :55
 ・ヘリポート
11:05
・余慶橋
  :10
・ナメトロ
  :20 ・羽根戸トンネル
  :30 ・丹波山トンネル
  :50
・尾崎行雄碑
      (三条新橋の上)
12:30
 ・一之瀬川橋
  :35
・おいらん淵
  :40 ・丹波へ戻る.
14:15
 ・丹波バス停
15:45
 ・  〃   発
16:40
 ・奥多摩駅

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06.10.17
9.鴨沢〜おいらん淵

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