山へ行っていて一番悲しかったのは、部に入ってから
4年間、多くの山行で苦楽を共にしたU松が、谷川岳で
遭難した事でした.

山岳部へ入ったのは自分の後だったにもかかわらず、
自分など足元にも及ばない程の卓越した技能と、
山への憧れを持った、本当の山男でした.

山に対しても仲間に対しても、一歩下がった謙虚さと、
それでいてファイトだけは、誰にも負けない男でした.
U松のたてた食料計画のセンスの良さは、今でも
語り草になっています.

本当に惜しい男でした.
この人なつっこい笑顔は、今でも忘れられません.

S島と山へ行くたび、U松の事が話にでます.
特にS島は、彼と同期でしたから......

”U松”のこと

山の日記
北岳にて
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■部報・追悼集への寄稿文から
 U松は、1970年3月15日積雪期の一ノ倉沢南稜を単独登攀中に墜落、2ヶ月半後の5月31日奇しくも
 山岳部の年間行事で部員の集まる”道具祭”の当日、U松のザイル仲間でもあったT葉さんや、H原さん、
 O賀さんなどにより、本谷のシュルンドの中で発見された.
 3月の遭難発生から5月31日までの長期間、雪崩や落石の頻発する一ノ倉沢に、身の危険も顧みず
 通って頂いた執念の捜索活動の結果だった.
 U松はこの事故の約一年前に会社の山岳部を辞め、より先鋭的な町の山岳会に移っていたが、その
 人柄もあって山岳部に在籍していた頃と何等変わりなく、会社の山岳部にも多くの山仲間を持っていた.
 道具祭もそこそこに駆けつけた土合の小屋で、白い布に包まれたU松を囲み、みんなで謳った山の歌が
 今でも忘れられない.
 U松と最後に攀ったのは、遭難する1年前の、八ヶ岳:横岳小同心クラックだったか.

 ヨ−ロッパ三大北壁遠征のため、現地で必要だからと自動車免許を取り、毎朝夕、英語学校に通い、
 着々と堅実に準備を進めつつあった時期の遭難.
 人一倍山に対して謙虚に向き合い、この積雪期の南稜もヨーロッパ遠征の一ステップで、年末から
 五回目の挑戦だった.

 若くして逝った友の姿は、その当時の姿のまま、何時までも心に残る.

■慰霊碑...’11.9.5
 
十年振りに、天神平ロープウェイ駅の下にある慰霊広場を訪れた.
 時が止まったかの様に、広い芝生に広がる慰霊の塔や像
....自分の中では、ここがU松のお墓なのです.
 その片隅に谷川岳の一の倉を中心として各沢で遭難された方の出身地とお名前の刻まれた慰霊碑があり、
 U松の名前も刻まれている.随分苔むしたU松の名前を、持参したお水とブラシで綺麗に洗って帰った.
   ■帰りに、ロープウェイ駅の上にある”谷川岳山岳資料館”に寄って事務局の方と話していたら、なんとその方はU松がヨーロッパ
    遠征を目指して都内に通っていた頃のお知り合いとの事.あだ名までご存知で.....U松のお引き合わせだったか!.
遭難者の名前が刻まれた
    慰霊碑の全景
この辺にU松の名前が
あるのです.