新入社員の時代
”職場”のこと
新人教育が終り、所属発表があって150名の新入社員は、夫々の新職場に
散りました.
私は、当時”研究所”と呼ばれていた10階建ての建物の、10階に配属
されました.工場を計算機で制御するという、当時としては画期的な研究と
実JOBを担当する課で、その計算機システムの研究開発をしていたのです.

当時の部長は、雲の上の存在で、10時頃に出社して来て、4時になると
退社するのですから、会社で何をしているのかさっぱり分かりませんでした.
多分、学会などへの出席だったんでしょうが、机に座っても新聞を読んでいる
姿しか記憶にありません.それほど、エライ存在でした.

所属した課は幾つかのグループに分かれていて、私は表示関係の開発を担当
していたK岡さんのグループでした.同じ課のグループに、システムの取り纏めを
するSEのグループがあり、そこにもう一人の同期が入りました.このグループには
その後、私の上司になるT村さんがいました.
仕事は、ひたすら先輩の実験の補助で、自分でロジックを組んで製品開発が出来る様になったのは、
ズッーと後の事です.最初は学校でも使った事の無いシンクロスコープの操作を必死で覚えました.
これが出来ないと、仕事にならないからです.

朝早く来て、先輩の机の上を拭く事から1日が始まります.
ビルが高いので、冬になると富士山が大変きれいでした.
また、よく鳩が集まるので、エサをやるのも仕事の内です(その後、ビルが汚れるからと、庶務課から
お達しが出て中止になりましたが).

避難訓練で、10階から下まで避難袋で降りたことがあります.
長い袋に入って滑り降りるのですが、当時のS藤課長が「志願者はいないか!、志願者はいないのか」と、
なんだか私の顔を見て言うのです.
袋で降りたのは始めてでしたが、作業服を着て両腕を突っ張っていないと、スピードが出て袋の出口から
飛び出してしまいます.下に降りた時は両肘が熱かった事を覚えています.

始めて出張したのもこの職場に居た時で、K岡さんに連れられて、M金属・神岡工業所へ行きました.
1号機の納入でしたが、ン十年後、同じ客先へサービス営業推進で訪問し、あまり変わっていなかった
のが懐かしかったです.

K岡さんは、その後初代のヨーロッパ駐在員としてハンブルグへ赴任、私は「T村組」と言われていた
T村さんの元でしごかれましたが、縁とは不思議なもの.
その後、会社の合併があり、私が新サービス会社へ移ってから、親会社の技術担当役員だったT村さんが、
社長として就任されたのです.

悪い事してなくて良かったな〜が、実感でした.
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