営業の時代
本社とは”数字を集める所”
サービス商品を開発し、それを地方の代理店さんや直系の拠点へ
説明、拡販に廻っていた時代は、まだ良かった.
今期は、この商品をこの位受注して貰おう、売上げをこの位上げて
貰おうと計画し、それを”自己目標”として全国を走り廻っていた時は、
推進メンバ−は少なかったものの、サービス員時代の様に
        義理、人情、協力
で仕事も面白かったし、お客様に理解頂くにはどの様に話したらいいか
拠点の営業マンとチエを絞った.

サービス商品=年間保守契約 が長い間のサービス商品だったが
「お客様の環境に応じてサービス作業をカストマイズ」すると言う商品を
出すと、結局、「サービスのSE」が必要になり、さすがに製品主体の営業マンにはきつかった.
しかし、製品主体の営業にも、年間保守契約の時代から、ベース受注としてサービス商品に注力し、
”理解”のある営業マンがいて、彼らと一緒に営業に廻ると気持ちが通じて、楽しかった.
商品の説明は出来なくても、お話出来るお客様の席に連れて行ってくれるだけで、充分だったから.
しかし、商権が移り、営業推進メンバ−だけが親会社の本社に席を移してからは、いくら営業は数字が
命とはいえ、ひたすら”数字”だけの世界になった.

それでも、多い時には週の内4日間は、他のメンバ−と手分けして拠点を廻っていられた.
それは、同じ部に同期のK藤がいて、上からの”数字の圧力”を受けてくれていたからである.
数字を伸ばすには、当然我々の力だけでは無理.お客様に深く入り込んでいる代理店さんや拠点の
営業マンが、その気になって拡販してくれなければ、数字は伸びない!.
K藤は、営業部長から支社長の要職を経験して製品主体の営業への顔が広く、本社内の海千山千の
営業の内情や人脈を知り尽くしており、どこをどう押せばどうなるかが分かっていたし、人望も篤かった.
自然に、彼が内部向き、自分が外部向きの役割で分担する形が出来上がった.
K藤には申し訳なかったが、他のメンバ−の拠点廻りを調整しながら、サービス商品の拡販で、代理店さん
や拠点を飛び回っていられた.
親会社で相談役になっておられた”設計屋時代”のT村さんに会い、”おい、F井.楽しく仕事しとるか!”と
聞かれて、”きついけど、お客と話が出来るから、楽しいですよ”と、言えた.
しかし、1年後に、上からの”傘”になって火の粉を受けてくれていたK藤が、他部署へ異動になってしまった.

そして、サービス作業や商品をお客様に売りに行った事さえない、”数字”だけに興味のある体制だけが残った.
そこには長い会社生活で、かって一度として会った事のない不可思議な人種が居たし、また、設計屋の時代に
T村組で叩き込まれた”現場主義”とはかけ離れた世界だった.
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