サービス員の時代
”下丸子”
会社が合併し、夫々の傘下にあった4つのサービス関連会社が一つに
なって、「新サービス会社」が発足した.
その結果、我々、計算機関連のサービスを担当していたメンバ−は、
合併先の会社のある、下丸子の「計算機センター」に移った.
そこは、なんでも旧トレーニングセンタ−の跡(3階建て)とかで、
結構狭かった

私は、合併の約1年前から極秘に進められていた合併準備委員会の
メンバ−に入っていたので、合併先の課長とは面識があったし、事前に
こちらの計算機のサービス員教育などで数人とは面識があったものの、
いざ、下丸子へ移ってみると、当然の事ながら、初めて会う人ばかり.
会社が違うと、こうも社風が違うものかと度々感じた.
(ま、お互い様であるが.....)
幸い、センタ−長が、その後のサービス営業でも一緒に仕事させて頂いたH間さんという気さくなボスで、
技術課、サービス課の各課長ともそれまでの準備委員会で見知った顔だったので、割合、気楽にやれた.

ここでは、全国の計算機関連のサービス・サポートを行う部署を担当した.
(20名ばかりのメンバ−で、こちら側から行って同じ部署になったのはA山君だけだった)
後に、サービス営業を一緒にやったTちゃんや、サービス技術のI倉などがいた.
移った部屋は、やけに天井が低く汚れており、環境整備が真っ先の仕事.
Tちゃんの発案で、自分達で部屋の天井から壁に至るまで、ペンキの塗り替えをする事になり、休日に
全員が集まって、各自の家から持ってきた新聞紙を部屋中に敷き詰め、作業服にマスクと頭に手拭いで
”ペンキ塗り”が、初仕事になった.

色んな事件もあったが、目蒲線の電車に揺られての通勤もなんとなく慣れた頃、私だけ本社の技術課に
呼び戻され、下丸子は1年で終った.
春先の多摩川土手の桜並木がきれいな頃だった.

しかし、元々、少人数で、お互いの「義理と人情と協力」の世界でやって来た計算機のサービスだったから、
計算機センタ−に移って元のメンバ−が分散した結果、隣のサービス課に移った「M村」には、随分
苦労させた.
お互いの計算機サービスの立ち上げに忙しく、こちらのエリアのサービスは殆んど彼の一手引き受けで、
寝る間も無く、走り廻らせた.
今でも「M村」と飲むと、「F井さん、先に本社に帰っちゃうんだもんな−」と、”うらまれて”いる.

「M村」よ、ごめんな!.
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