サービスセンターの時代
”仲間達”
富士急ハイランドにて
前任者から引き継いだ時には、約80名.
当初は、静岡、長野から関東一円までの範囲だったが、即応性を重視した事から徐々に地方分散
して行き、最終的には70名の陣容で箱根山から東京23区までと、沖縄のお客様をカバ−した.

自らを”トビの息子”と称し人望の篤いS藤(治)さんや、相撲取りの様にでっぷり太ったK地君、
原子力船むつの点検で苦労させた協力会社のM崎さん、某電力会社のほとんど専属みたいだった
H君などなど.サービス員時代に”子守り”をさせたT原も加わって、バラエティに富んだ陣容で
構成されていた.

勿論、広いサービステリトりィに、サービス代理店さんとの協力体制は欠かせない.
Y商さんの親分とか、T陽のボスには、色んな面でお世話になり、教えて頂いた.

7月に赴任したので、「期」の半分は前任者の立案した計画を消化すればよく、なにかあっても
「これは、前任者が立てた計画」と言っておれば良かったが、「10月〜3月の”下期”」になると
自らの計画になる.
計画を余りきっちりやり過ぎて、全員を集めての説明時に”歯に絹を着せない男”から.....
「やっぱり、数字が主体ですか!.それなら、前任者と変らないですね−」と言われて大いに反省した.
一線サービス員は、それでなくても夜昼関係なく飛び回っており、それに加えて「数字」の話を
されたんでは堪らない!.
その後は、お客様とサービスとのコミニュケーションを図る事に専念した(M島よ、ありがとう−!).
定期点検のための「定検セット」の中に、お客様から作業の評価をして頂くための「ご評価表」を
入れたり、「みんなでチャレンジ、○○センタ−」の標語を作ったり(標語のハンコを作って、ベタベタ
押しまくった)、”なんでもいいからチャレンジした人には、チャレンジ大賞”を出したり、色々とみんなで
アイデアを出した.
 注:チャレンジ大賞の選考委員は、各Grから選出された7人の選考委員会(主任以上を”除く”)で
   構成されていた.

本社から離れた事で責任や忙しさは倍加したものの、気分的には楽で自由に振舞うことが出来た.
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