サービス員の時代
初めての海外出張(韓国)
初めての海外出張が回って来たのは、サービス員から、サービス・スタッフとして
の業務に代わった時でした.
行き先は”韓国”の麗水(ヨースー).朝鮮半島の先端で、日本に一番近い所.
そこの石油化学会社に大型の計算機システムが入り、現地での立ち上げと教育で
技術員が必要だったのです.派遣条件は、「スーパーバイザ」でした.
行く前に聞かされていたのは......
       「”スーパーバイザー”てのはね、ドライバ−を持っちゃあならんのよ.
        現地の”ワーカ−”の指導だからね」
某エンジニアリング会社の下に入って、後続が来るまで1ケ月の出張.システムは、Y10でしたから
心配は無いのですが、まだ”戒厳令”が残っていた時.若干の不安はありました.

■1日目 羽田〜ソウル〜麗水
羽田から飛び立ち、ひどく大回りして?鳥取の先付近から国外に出、うわさに聞いていた赤茶けた禿山の
上を飛ぶと、3時間でソウル着.迎えに来てくれた韓国の現地社員に案内されて国内線ロビーへ移動し、
国内線で1時間.麗水空港にはカ−ビン銃を持った兵隊が滑走路を見張っていて、まず驚きました!.
空港には、スタートアップのK池君が迎えに来てくれて居て、一安心.
連れて行ってくれた1ケ月間の住み家は、客先の社宅でした.
4LDKの部屋に2人で住むのですが、相棒は日立からの派遣社員で、温厚な技術者でした.
しかし、同じ部屋で生活していても、完全に別行動で、不思議と会話した覚えがありません....

■2日目 社宅〜工場
社宅の出入りはガッチリした守衛所で守られています.社宅から工場へは専用バス.
数日前に”北からの侵入があった”とかで、ひどく厳重でした.のんびり赤牛が草を食べている畑を通って
小さな峠を越し、中間地点で十字路を横切るのですが、一度止まって”検問”を受けます.
ここでも、カービン銃を持った兵隊が乗り込んで来て、バスの中を調べて通過(毎日、往復ともデス!).
やっと工場に着いて、方々に挨拶回りをし、会ったのが1ケ月間付き合ってくれる Mr.Leeでした.
韓国の有名大学を出たエリートだけあって片言の日本語も勉強しているし、何と言っても人柄の良い
人物でした(彼とは、帰国後数年、手紙のやり取りをしていましたが.....).

■3日目〜15日目 開梱〜据付〜火入れ
何と行っても、計算機を倉庫から出して計算機室へ運び込むまでが一大事業でした.
船で運んで来て、倉庫に積まれている梱包の山を、計算機室の建屋の横まで運んで、それを1つ1つ、
3階にある計算機室に入れるには、一度、屋上で梱包を解かにゃならんのです!.
Mr.Leeが、あちこち飛び回ってクレーン車を手配してくれたんですが、誰も”玉掛け(クレーンオペレータ
への荷物の上げ下ろしの指示)”をやらない!.仕事が進まないから、やりましたよ、自分で!.
計算機の本体が宙を回りながら屋上に来た時は、振動を掛けたら終わりだから、冷や汗もの.
次々と宙を舞って来る荷物の山で、とうとう広い屋上は満杯になりました.
運んだまでは良かったが、今度は開梱.
海外用の梱包なので、何重にも厚いアルミ箔状の梱包がしてあり(出張前に現物を見なかったのが敗因!)、
Mr.Leeが持ってきたバールで一つ一つこじ開けて行くしかないのです.
夏の暑い盛りだったから、二人とも汗びっしょりになって、ワーカーを使いながらの作業.
屋上から、木製のコロを使って、そろりそろりと計算機室へシステム全体を運び入れ終るまでに、
3日掛かりました.その後も、太い専用ケーブルを梱包箱から1本ずつ出し、とぐろを巻いていた状態から
真っ直ぐに伸ばし終えるまで、さらに2日.
もうこの頃には「スーパーバイザ」なんて何処かへ吹っ飛んで、「ワーカ−」そのものでした.
一番揉めたのは、計算機のアースの取り方.工場の土木の責任者らしき人物とMr.Leeと三人で、建屋の
あち、こちと移動しながら談判し、決まるまで1日掛かりでした.....仲介するMr.Leeも大変!.
電源や、端子盤との信号線も配線し終わって、大事に持っていた計算機の電源キィをコンソールに差し込み、
計算機に”火”が入った時は、Mr.Leeと手を握り合って喜んだものです.
途中で筐体にゆがみが見つかり、それが輸送中に起きたものか、それ以外か、保証の関係があるので
またまた工場の総務とやり取りがありましたが、会社に連絡すると、我々サービス員が一番頼りにしていた
製造部のK田係長から、二つ返事で代替品と、「何でも言って来い!、すぐ送るから....」の手紙には
泣きました.

毎日、朝と夕方には、工事関係者全員が事務所に集まり、ミーティングがあります.
殆んどハングルと英語のやり取りなので、内容は半分位しか分からないものの(私の知っているハングルは、
”アンニョンハシムニカ”と電話の”ヨボセォ”位だったから)、責任者も計算機の事はすっかりMr.Leeに任せて
いたらしく、自分はただ座って居るだけで終わりでした.
会議中でも、工場の入口にある国旗掲揚台から韓国国旗が下ろされる5時になると、国歌が流され、旗のある
方向に向かって全員起立します.毎日聞いていたので、最後には覚えちゃいました.

■16日目〜25日目 調整
計算機本体は、テストプログラムを回すだけですぐ済みましたが、周辺機器の入出力チェックには時間が
掛かりました.2ケ所に遠隔オペコンがあり、工事の関係で電源やケーブルの配線が遅れていたのです.
この空き時間を利用して、もう其の頃は年は離れていても「友人」になっていたMr.Leeと、システムの
勉強会をやり、契約条件の「製品教育」を徐々に消化していきました.
初めての海外出張で疲れて来て「早く終って、日本に帰りたい」と、もらした時、Mr.Leeが「Fイサン、ソンナコト
イウノ.....」と嫌な顔をされたのも、この頃でした.
朝夕、社宅の自室から、一人で丘の上の食堂へ行くのにも慣れ、金属のスプーンと皿での食事にもなじんだ
頃でした.
会社から派遣されていたプロジェクトマネージャーのK城さんやK池君と、休日に2回ほど麗水の町へ行き、
駐在員との会食なんかもしましたが、”外出禁止”の始まる時間が気になって落ち着きませんでした.
夜中に、社宅の後ろの丘を走る、戦車らしい音も聞こえていたし.
”外出禁止”の時間近くになると、タクシ−の奪い合いになると聞かされていたので、なおさらでした.

■26日目〜30日目 引継ぎ
名古屋に居た後任のHがやって来たのは、この頃でした.
計算機室へ連れて行くと、その第一声が「Y10が動いているのを見て、ホッとしました....」.
彼は、日本で見慣れたY10が、海外のここで動いているので”見慣れた姿”に安心したのでしょう.
Hには、Mr.Leeの事を良く頼み、後の事を引き継いで、来た時と同じルートで帰国しました.

その後、このシステムの点検で、何人かが出掛けて行きましたが、私はその後の姿を見ていません.
話では、社宅のあった所はすっかり様変わりして、一大都市になっているとか.....
Mr.Leeも、彼の事だから今頃は立派になって居る事でしょう.風の便りでは、程無く、IBMに移ったとか....
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