町の山岳会から依頼され、八方尾根へ遺体捜索
に行く事になった.行方不明になっていたのは、
1ヶ月前の連休に唐松岳へ日帰り登山を試みた
高校3年生だった. 同行:K木

八方尾根の悲しい思い出

山の日記
八方尾根第二ケルンから白馬方面
初めて、遺体捜索という悲しい目的で
山へ行った、6月の記録です.
■6月12日(曇)信濃四谷駅〜平川〜八方尾根第一ケルン
信濃四谷駅から捜索本部の置かれている”望翠荘”へ.既に何回も打合せを済ませているので、簡単な説明を
受けて、三班に分かれる.我々はB班.
八方尾根に向かって左側の平川を遡行して八方尾根の稜線に出る.地元のガイドを含め5人のパーティ.
トラックに乗り平川出合いに向かう.林道の途中で工事をしており、ここまで同行したご家族から挨拶を受けて
平川の支流、源太沢に入る.捜索しながら、しばらくはでかい岩伝いに登ったが、やがて沢を離れ、左の尾根に
取り付いて、スズ竹の中に時々現れる雪田伝いに行く.這い松が出て来た頃には夕方になっていた.
1日中、ひどい藪こぎに終ったが手がかり無し.視界も50m位で捜索は難行した.支稜をつめて稜線に出、
第二ケルンを廻って午後5時頃八方尾根第一ケルンの、国民宿舎前に作られた前進キャンプへ入る.
他の班も帰って来たが手がかり無し.明日の予定を聞いて寝る.

■6月13日(晴)第一ケルン〜源太沢下降〜”遺体発見”〜(前進キャンプ往復)〜平川〜望翠荘
朝から深いガス.K木は唐松岳に近い沢の捜索に、自分は昨日つめた源太沢を上流からガイド5名と調べる.
7時に出発し、八方池から少し行った石室跡付近から、左の急な雪渓に下降する.ガスが深くて下が良く
見えなかったが傾斜が緩やかになった所で、ガイドの言う源太沢上部の広大な雪田に出た
丸池が、かすかに雪に沈んで窪地を作っている.
池の右を通って源太沢に入る.両岸が狭くなってくるが沢全体に雪が詰まっているので、雪渓上を何か遺留品が
無いかみんなで目を皿の様にしながら下っていると、S字付近で遭難者の氏名入り小型バックを発見した.
S字下部からさらに500m位下り、昨日登った支稜から見た滝に出たので、ガイドにことわり、同行者と二人で
見に行く.この滝の下までは、昨日捜索済み.滝といっても、源太沢が少し落ちただけの何でも無い所で、すぐ
滝の下に降りられた.滝の下で何の気なしに左岸を見ると、岩穴状をした所が少し白っぽくなっている様に見えた.
二人して行って見ると、50m位手前でその白い物が長袖の下着で人間の形をしているのがはっきり分かった.
急いでガイドを呼ぶと、彼らは走るような速さですぐ我々の所に下りて来た.遭難者と判明.
すぐ連絡のためガイドと二人で第一ケルンへ登る事になる.アイゼンを付け、気がせいているので二人共休まずに
ガンガン登った.丸池の所で合図の笛を取り出し、吹き続けながら今朝通った扇状の雪渓をトラバースし、国民宿舎
へ戻った.ここであちこちに散らばっている班に連絡を取り、集合場所を打合せる.焦っているのか、トランシーバ−
で連絡していたガイドが受信状態のままマイクに向かってどなっていたので、こんな時なのに笑ってしまった.
搬出用の背負子やシュラフが集められ、国民宿舎前は戦場の様な慌しさ.準備が済んだ所で、ガイド5名と再び
源太沢に下降.前進キャンプは撤収されロープウエィ駅へ降ろされて行った.
扇状の雪渓下で、稜線からガイドやK木達も降りてきて合流する.滝の下で全員が集合、作業を始める前に大休止
してから遺体搬出作業を開始.シュラフに遺体を入れ背負子に縛り付ける.ガイドはさすがに手馴れており我々が
手を出す事も無く終了.八方尾根の稜線まで運び上げるのは大変なので、そのまま源太沢を下る事になる.
一人が背負子を担ぎ、前後左右からザイルで確保しながら下る.常に2〜3人が先行して、搬出ルートの偵察と
フイックス作業.滝の下からは雪渓が切れ、大きな岩を抱いてトラバースしたり、シュルンドに落ち込んだりして
苦労の連続だった.やっと、平川の林道に着いた頃は、夕方になっていた.
迎えのトラックが来たものの、今日、火葬場に運んでも検視が出来ないからと、途中の藪の傍に背負子ごと安置し、
お線香を立てて、全員で手を合わせた.
数人を残し、トラックに分乗して望翠荘へ帰る.帰ってすぐ、発見者という事で役場へ報告に行つた.

■6月14日(快晴)検視立会い〜帰京
素晴らしく晴れ渡った青空だった.遺体は、ロープウエィ駅に運ばれており、検視に立ち会う.
偶然にも、八方尾根上でもう1遺体見つかっており、二つの白い棺がレストハウスの横に並んでいた.
我々の方は遺体の損傷がひどいので、検視官もざっと見ただけで時に何も聞かれなかった.もう1体の方は
昨年12月から行方不明だった会社員の方で、雪の中にあったためか冬山完全装備で遺体の崩れも無い様だった.
作業が全て終了したのでK木と望翠荘へ帰り、装備を纏めて信濃四谷駅へ向かい、急行アルプス5号で帰京した.

大糸線の車窓から見る白馬三山は、まだ白い雪をいただいて何事も無かった様に静かな山容を見せていたが、
レストハウスで、骸となった我子を、遠くから目を真っ赤にして見つめていたお母さんの姿が、何時までも目に
焼きついて離れなかった.
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66.6.12